「暗闇の中に輝く、御子の光」 ヨハネ福音書1:1~5 創世記1:1~5



 このクリスマス夕礼拝において朗読しました、2カ所の聖書の箇所、招詞として朗読した新約聖書の言葉と、今、夕礼拝で読み続けている、創世記冒頭の言葉は、何と似ていることでしょうか。全く共通の言葉「初めに」から語り出される、創世記1章とヨハネ福音書の1章は、一つに重なり合ってしまうのではいかと思われるほどです。
 ヨハネ1:1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
創世記1:1 「初めに、神は天地を創造された。」

 聖書記者・ヨハネはここで新約の時代に相応しく、御子イエスを中心とした、新しい時代の天地創造の物語を語ろうとしたに違いありません。
 特に、朝の光の中、会堂を充たす会衆も消え、教会学校の子どもたちの歓声も消え、サンタクロースも現れない、既に日が沈んだ冬至直後の夜の中、こうして少数の者たちで、クリスマスを祝っています。
 しかしこの人間的に見たら寂しく暗いこの夕べのクリスマス礼拝において、私たちは旧新約両聖書から、「光の到来」の言葉を聴くことが許されたのです。そしてその光はどこから放射されるのか、光とは何であるのか、何でないのか、ということが、この旧約・新約両聖書がどんなに注意深く語っていたのを学ぶのです。
 最初に創世記天地創造を見てみますと、その1:3、神の天地創造の業の第一声は「光あれ」です。しかしこれは私たちが予想するような、太陽の創造ではありません。この創世記の連続講解を学び始めた時に申したように、太陽などの天体の創造は、何故か、ずっと後で、14~16節(四日目)でなされるのです。
 この最初の決定的なる「光」とは、2節に記された混沌の「闇」に対する言葉であり、歴史の闇、人間の罪の暗黒を照らす救いの光のことです。神の愛の光です。後で語りますが、物理的光も含んでいたと思いますが、その本質は、霊的意味での光、神から直接放射される救いの光を意味するのです。
 そして、それとは別の物理的意味における光の創造が言われているのです。それが、1:14~16「神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。」
 私たちは、この天体の創造が天地創造も半ばを過ぎた、4日目という非常に遅い時に位置づけられたことに、不可解さを感じるのではないでしょうか。人間は、草花や果樹が太陽の光によって生育することは誰でも知っているのですが、その植物の創造がむしろ1:11にあるように、天体の創造に先んじています。古代人はかくも非科学的であったなどと、私たちは言う資格もありません。何故なら、彼らの自然や天体に対する感性の鋭さは、機械文明に犯された私たちの比ではなかったはずだからです。全ての生命を育み、暦の基準となる天体の光の力を余すところなく知っている者が、しかしあえて、天体の創造を遅らせて描いたというところに、創世記記者の渾身の信仰告白があるのです。
 古代いずれの国でも天体は神格化されてきました。日本でも、元旦の早朝に見られるように、太陽は「ご来光」と呼ばれ礼拝されます。エジプトには太陽神ラーが存在して、モーセと争った最強の王ラメセス二世と合体し現人神がナイルの岸辺に出現していました。

 この天地創造を書いた信仰者たちが、バビロンに捕囚として異国に連れて行かれた時最も苦痛であったのは、太陽、月、星を神として拝む盛大な祭りを目の当たりにしなければならないことであったと言われています。そういう中で、彼らは、いや天体は被造物にしか過ぎない。創られたもの、つまり物体に過ぎないと、言うのです。
 〈また、アブラハムの昔から月は「月神」と拝されていました。人々はその運行による太陰暦で生活していました。星は占星術に用いられていました。これら天体なしでは、人間の生活はなりたたなかったのです。〉
 「天体は神ではない。」と訴えようとしているのです。

 そしてこの天地創造1:14以下の理解では、最初、神ご自身が放射された光の内、物理的光のみは、この4日目に造られた天体を媒介(仲立ち)し、通過して、地にもたらせられる、という理解がここにはあると思います。つまり、天体は、それ自体が光を放射するのではなくて、神の光の一部を、地球にもたらすパイプのような役割を負っている。あるいは反射する鏡のような存在である。今、私たちは新しい科学的知識として、月はまさに、それ自体が光っているのではなくて、太陽の光を反射して夜輝いていることを知っていますが、それに似て、実は、1:16、太陽、月、星々は、みな、それ自体が貴いのではなくて、それ自体は空しい物体の塊ですが、それがもし役立つとしたら、最初に存在していた、神の光の一部が、通過してくる「パイプ」であるからだ。神の光を反射して、輝いているのだ。つまり天体は、神の光を指し示すものである。そのようなことが天地創造で言われていると思います。

 そしてこういう光に対する洞察を、ヨハネ福音書がその信仰の心を受け継ぎ、もう一度、新約の光の中で語り直そうとしている、そう思いました。
 (ここで一言、注意致しますと、ヨハネによる福音書を生み出した教会と洗礼者ヨハネの教団は異なります。福音書記者ヨハネは、イエス様の弟子・使徒ヨハネと一応考えて下さい。洗礼者ヨハネは別の預言者です。)ヨハネ1:6~8「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」、当時、まさにこの洗礼者ヨハネは太陽のように輝いて見えた預言者でした。ブルトマンという極めて優れた新約学者は、このヨハネ福音書冒頭に記されます賛歌は、もともと主イエスを褒め称える言葉ではなかった。洗礼者ヨハネを教祖とする教団が、ヨハネがヘロデ王によって殺害された後、恩師ヨハネに向けての歌った讃美歌であった。そういう仮説を発表しています。そうであれば、そこでは、洗礼者ヨハネこそ「言」であり、真の光であったのです。事実、主イエスご自身がこのヨハネから洗礼をお受けになっておられるのです。
 そのことは、ルカ福音書の冒頭でも似たことが言えるわけでして、クリスマスの物語ですが、御子イエスと並んで、ヨハネの誕生物語が同時に記されています。また、ルカ1:67以下(新102頁)には、ルカ福音書のクリスマス賛歌の中に、ヨハネの父ゼカリアの歌・ベネディクトゥスがあります。これは元々は、ヨハネ教団に伝わるヨハネを褒め称える賛歌であったのではないだろうか、そうであれば、その歌の最後ルカ1:78b~79にあるこの言葉、私たちが、ゼカリアが御子イエスを讃える歌と理解しているこの箇所「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」
 この歌は、元々はヨハネ教団のヨハネ賛歌であったと説明する学者も多いのです。つまり、この余りにも偉大な預言者ヨハネは、この世の闇を照らす光と、弟子たちから判断されるような存在、スーパースターであった。あるいは、ある人は、この1世紀の時代に、既に、洗礼者ヨハネの名声は、ユダヤのみならず、遠くローマ世界にも及んでいたと指摘されます。ヨセフスなど、当時の歴史家たちの記録を読んでも、イエスに関する言葉は曖昧であるのに対して、洗礼者ヨハネに関しては明瞭な記録がなされている。つまり、一般人には、イエスよりヨハネの方が高名であったのが事実であったと言うのです。

 しかしそのような中で、ヨハネ福音書1:7~8は、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と言われました。洗礼者ヨハネは光の証人なのです。光そのものではない。この7「彼によって」と訳されている言葉は英語では、しばしばthrough「通り抜ける」という意味の前置詞で訳されます。ヨハネはもまた通過するもの、媒介なのです。そこに人々の眼差しが注がれ、止まってしまう、そういうことであってはならない。確かにヨハネは太陽のように輝いています。預言し、神の言葉を語る、その姿は神々しいほどであったに違いありませんが、しかしヨハネは、自分を輝かせているお方を指し示すのです。自分を通り抜けて向こう側にある、光の源にこそ、目を留めることを人々に求めるのです。それが光の証人という意味です。洗礼者ヨハネはこうも言いました。1:15「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 ここで、創世記の天地創造の言葉と、この福音書は明らかに重なるのであります。天体の光がどれほど輝いていても、それは天体よりも先にあった、真の光を証ししているに過ぎない。その天体はただ反射するか、通過させているだけである。そう言った創世記者と一体となるかのように、第二の天地創造を描こうとしたも言いうる、ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネを拝んではならない。彼が指し示す始源の光、御子イエスのみが救いの光である。まことの光である。それが分かるか、と読者に問いかけているのです。
 
 私たちがキリスト者であるということは、まさに、それはヨハネになることです。1:7~8「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」、ヨハネにとって、自分が目立ち、讃美されることは、耐え難いことでした。自分が輝く、それは彼にとって、1:15「声を張り上げて」ざるを得ないほど、嫌悪すべきことでした。皆さんは、ここで声を張り上げるヨハネの気持ちが分かりますか。声を張り上げるヨハネ、このヨハネと私たちキリスト者は一つになることが求められているのではないでしょうか。自分が御子イエスよりも大きく描かれることに、彼は耐えることが出来なかった。もしそういう扱いを受け、死後、自分の讃美歌を自分の弟子たちが歌い出した時、彼は本当に叫び出したかったと思う。私たちもそうです。私たちの一生が光を指し示す人生であるのです。クリスマスの夜、私たちを照らして下さるために御来臨下さった御子イエスの御名だけが唱えられることを、求めて生きるのです。
 そうしないと、だんだん大変なことになる。このヨハネ福音書を産み出した教会は、やはり、バビロン捕囚の闇のただ中にいた創世記記者と似た境遇にいました。ローマ帝国の激しい迫害の最中にあったのです。ローマ皇帝は自らを神だとしていたのです。そこからどれほど恐ろしいことが起こったのか。御子イエスが神であると告白する教会の信仰者たちを弾圧して殺しました。人が神となるということがどれほど恐ろしいか、そのことをヨハネは、よく知っている。自分が神になる時、私たちは神の言葉を隅に追いやる。イエス・キリストを十字架につけて、殺すのです。

 ある学者は言います。当時、ヨハネ教団はキリスト教会と覇権を競っていた。そのヨハネ教団に勝利するために、福音書は、一所懸命、ヨハネを小さなものに描き、イエスを大きく描いたのだ。それが今私たちが読んでいる福音書なのだ。しかし、私はそんなけちくさいことではないと思います。原始教会はそんなヨハネ教団に勝とうとか、そんなことに力を注ぐほど暇ではなかった。そう確信します。ヨハネの教会が願ったことは、どちらの教団が大きくなったとか、そんなことではない。ただ神の御名が大きくなること、そのために、御子を宣べ伝え、迫害で教会がなくなってしまっても、自分が、本当に小さくなって、亡き者にされてしまってもよいと思った。死んでもいいと思った。
 それが、御子を胎に宿した時、母マリアが歌った、クリスマスの最初の歌、マニフィカトです。ルカ1:47節以下(新101頁)に記される、「マリアの賛歌」です。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」、ラテン語に基づく冒頭の言葉によって、「マニフィカト」(あがめます)と呼ばれる歌です。ここは原文のギリシャ語では、「メガリューノー」(μεγαλ?νω)ですが、このギリシャ語から、「メガ」という現代語の大きさを表す接頭辞が生まれました。「大きくする」という意味で、それを生かしてここを訳すなら、「私の魂は、主を大きくします」、そう母マリアは讃美歌を歌いました。
 しかし、天地創造によれば、最初の人間は、禁断の木の実を食べ、自らを神としたいと願いました。自分を創造主よりも大きくしようとした。その原罪からの解放を、母マリアと洗礼者ヨハネは願い、自らを御子イエスの前で小さくしようとしたのです。
 それ以外に、人間が健やかに生きる道はない。メガ人間は、やがてノアの洪水を引き起こして、世界を破滅させてしまうに違いありません。その破滅の足音が、2017年に益々大きくなるのではないでしょうか。そのような暗黒で世界が覆い包まれることがないように、御子イエスの光を指し示す私たち西片町教会の2017年でありたい、そのように願います。

祈りましょう。 主なる神様、洗礼者ヨハネが知っている、自分が衰え、御子イエスだけが栄えることを見る喜びを、クリスマスの光そのものである御子を、自分が透明になってでも、人々の前に輝かせる生き甲斐を、感動を、どうか私たちにも味わわせて下さい。(2016年12月25日 N夕)


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